すこし古い本ですが、ゼリンスキー『働かないって、ワクワクしない?』を読みました。原題はThe Joy of Not Working(不労の喜び)で、勤労倫理に正面から挑戦した刺激的な本です。
ネット上ではアーリー・リタイアメントを賞賛するブログもよく見ますが、もし実際に仕事をしていなければ、「いい若い者が昼間からぶらぶらして」とか、「働かざるもの食うべからず」とか、あるいは「勤労の義務を定めた憲法に違反」とか、なんやかやと非難されるように思います。
実際、新聞記事などみると、働かない(働けない)息子とそれに業を煮やした親との悲惨な事件が後を絶ちません。
しかも、他者(家族も含む)からの非難以上に、むしろ自分で自分を攻撃するほうが、より深刻かもしれません。自己を蔑視し、あるいは無能感や無力感にとらわれることが、うつ病や不安神経症、行動障害などの原因になりうるからです。
働かないことを理由に、自分で自分を苛んでしまうのは、勤労の倫理を内面化しているからに他なりません。まさにウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の分析のとおりです。
ところが、ゼリンスキーの著書はこの勤労の倫理、さらには節約・節制・禁欲、時間の有効活用といった功利的な倫理を、ソクラテスやラッセルを持ち出して、正面から批判します。
曰く、(カッコ内はゼリンスキーからの引用)
「・・・ソクラテスはこう言っている。肉体労働者は他の人々と交流したり地域社会に貢献したりする時間がないため、悪い市民であり、友人としてのぞましくない、と。」(47頁)
「「怠惰賞賛」というエッセイの中で、ラッセルはこう書いている。「勤労のモラルは奴隷のモラルである。そして、現代社会に奴隷は必要ない。」」(51頁)
なるほど、勤労の倫理も一つの倫理(資本主義に適合的な倫理)に過ぎず、歴史を貫いて妥当するものではないようです。そう考えれば、仕事が生きがいの人を別として、無理に仕事を頑張る必要もなく、「停年までは手を抜いて」(知人のN先生)というスタンスで臨むぐらいが、健康や自己実現によいのかもしれません。
著者の言うとおり、特定の価値観で自己を犠牲にするのではなく、逆に人生を生き生きと楽しむために、自分なりの価値観を育み大切にすべきなのでしょう。そして、自分の価値観に沿って生きるときに、本当の意味で人生が「ワクワク」するのだと思います。
もっとも、 働かないと食えないのが「資本主義」の現実。同書では、「月収五百ドルで支出が四百九十九ドルなら、経済的に自立している」(284頁)とも言いますが、その「五百ドル」を得る方法が浮かばないから、みんな苦労しているわけなんですが。。。
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